姉さんの日々 10月14日(月)~死亡届
この日記は 15日の午前3時45分に書いています
14日 この日記は書いていません
午後 診療所に診断書をもらいに行き
前から無性に食べたかったステーキを
新大宮商店街の洋食屋さんに行って食べました
祖の洋食屋さんは看板がさかさまに開けてあります
ちょっと変わってるって感じのお店
へそ曲がりアマノジャクの私には相応しい店かと
祖の後区役所に行って死亡届を出しに行きました
姉さんの本籍地の住所が分からなかったので 一度家に帰り調べました
以前 正月を前に田舎から姉さんの実家からお餅が送られてきました
その時の送り状をはがき類のところで見つけました
受け付け担当の方からは 大体の住所でいいということでしたが
私の記憶にある住所と少し違っていたので 念のために帰って確認してよかったです
家に戻ったとき 介護センターの訪問看護師さんが 姉さんに会いに来ていました
朝 その方から電話があったので 入り口は開けておきますので
私が用事で出ていなくても 遠慮なく上がってくださいと言っていました
そのことを話しておいてよかったです
そして 恵美子さんも用事があったついでに家に寄ってくださいました
百合の花を頂きました その香りがずっと部屋に漂っています
葬儀社の方は15日 今朝一番・・・9時に伺って区役所での確認事項が済み次第
火葬場に姉さんを運ぶという段取り
恵美子さんも是非に行きたいということでした
私は恵美子さんの足の状態が悪いと聞いていましたので
無理をなさらないでとお断りしましたが 恵美子さんは是非にとおっしゃるので
断り切れずに来てもらうことにしました
恵美子さんのことは当然私も知っていますが 姉さんとの関係の詳細はしりません
恵美子さんはねえさんにお世話になったとしか話しません
寝顔の美しい姉さんは ベッドで静かに寝ています
その姿を見るのは今日で最後になります
今 4時を回っています この時間に目が覚め書いているということは
私もやはり姉さんとの最後になる日というので
緊張しているのでしょうね
死亡届のこともあり 午前中には介護センターの看護師さんたちが
姉さんに会いにいてくださったり 入浴サービスの日だったのですが
一応お断りはしていたのですが その時間に立ち寄ってくださいました
そんなこともあり 夕方までは何かと手がつかず 日記も書かずじまいでした
やっと時間ができて さとちゃんちにコメントを始めたのです
その一部に姉さんのことを書いたのが下記のコメントです
それをこの日の日記に替えたいと思います
明日の観想詩4/24(火)・写真はシャガの花
2007/04/23 里恋日記
一郎
明日
旅立ち姉さんは 明日旅立ちます
人生の卒業式
おめでとう
2019/10/14明日の観想詩4/21(土)・今日の写真は初取りウド
2007/04/20 里恋日記
一郎
■今日の短詩
・・・身から出る 錆も 自分だからね 大事にねこの言葉は 言ってみればその人の責任を責める言葉になるけど
それをも「大事にね」とやさしくフォローする心って
なかなか考えつかないこと さとちゃんらしなあと感心した
錆なんかに目を向けないよね 普通はおもいがけない
訪問
ひさしぶりの
出会思いがけでもなく
ひさしぶりでもなく
いつも 決まって訪問してくれて会える人たちだけど
休日ということもあって 姉さんに会いに来てくださって
介護センターの訪問看護師さん リハビリの方ケアマネの方
そして昨晩も駆けつけてくれた恵美子さんに心から感謝
その人たちがみんな言ってくれた 姉さんはいい顔してるなあと
今晩でその根さんの姿を見ることは出来なくなる
仕方ないよね それは自然なことだから
でも姉さんは ほんとにみんなから好かれた 皆尊敬していた
姉さんをかわいいと言ってくれた
一緒ん暮らしていたものとして ほんとにうれしい
祖の私が一番姉さんをないがしろにしていたかもしれないね
明日 火葬場に行きます 私は初めての経験です
父の時も母の時も帰りませんでした 遠く反れているというのも口実にしました
仕事を休めないというのも口実に
姉さんからは逃げられません 一緒に暮らしてきたからね
最期まで看取責任があると思ったる やっと責任が取れる大人になれた気がしている
70を超えてだからね
姉さんは93 来年を迎えられたらという思いもあったけど
叶わなくなった でも十分生き切った 姉さんは早く死にたいと言ってた
未練はないと 長い人生お疲れさまでした 見事に卒業おめでとう
そして ありがとう食欲も
失せるわい姉さんが寝たきりになって
私が食事の準備することになった
これまで何もしなかった私が
姉さんの介護をする 食の準備もする
やってみると 確かに小欲は失せるんですよ
それに姉さんを食べさせて 残ったのを私が食べる
まだ寝た切りにな手も両手は自由に動いていたし
自分一人で食事ができた
食事作って揃えれば あとはこれまでのように
姉さんが一人で自分のペースで食べる
私は早々とPCやってる
そんな状態から いよいよ姉さんは流動食しか食べられなくなった
そして手も不自由になった
色々試行錯誤しながらの食事
ある時 ねえさんがおいしいもの食べたいといった
そうだよね おいしいもの食べたいよね
雲義岡王と思ったけど アナゴにした
以前アナゴ丼をおいしそうに食べた記憶があったから
最近はアイスだけになった
アイスでカロリーを補っていた
他のものは受け付けなくなった
ノドの機能が衰えた行くのもわかった
これまでなかった食事中や食後の咳き込みが始まった
当初はすぐ治まったが 常態化するようになった
それが後々の深刻な誤嚥になった
体力的にも衰退していた時の咳き込み
長くは続かなかったが かなり体力を消耗していったはずだ
昏睡状態になり口からの摂取ができない
点滴は選択しなかった
命を長らえることはできても もう口からの摂取ができなければ
延命措置になりかねない
自然の成り行きに任せた
土曜の午前3時にミルクアイスを半分 50Kcallほど
その朝はせき込んでほとんど摂取できず 咳き込みが続いた
お昼までに咳き込みは治まって昏睡状態
そして日曜の夕方4時 息を引き取った
今 姉さんは静かに眠っているさと川柳2007・4ー05
2007/04/18 2007さと川柳
コメント
一郎
午後3時を回ったところ
今日最初のコメントになります
昨日の夕方 50年近く同居していた姉さんが
診断では脳浮腫の後遺症で亡くなりました
昼から死亡届の手続きをして火葬許可書もらい
明日火葬の段取りになります
そういうわけで この時間になりました
午前中 訪問介護センターの方も来ていただいて
お別れしていただきました
郷な入浴サービスの日でもあったので
その時間に入浴のスタッフの方も寄っていただきました
昨日夜 具合が悪いと電話で知った古いお友達の恵美子さんが
息子さんの車で送ってもらってお別れに来ていただきました
恵美子さんは今日の午後にも お花を持ってきてくださいました
明日は火葬場にもぜひ行きたいということでした
恵美子さんは姉さんより一回り年下なのですが
高齢でも最近は足が弱っているというお話でしたので
無理なさらないでとお断りしたのですが
どうしても野辺の送りをしたいということなので
それ以上むげに断ることはできませんでした
葬儀社の方が昨晩 姉さんの簡単な身支度をしてくれました
これからもきていただくことになっています
明日は姉さんと本当のお別れになります
しかし 歌にもありますように
姉さんはそこかしこにいるのでしょう
なにより私の心の中にいます
忘れっぽいし ボケが進んではいますが
姉さんのことは しばらく忘れないでしょう
しかし 先のことはわかりません
自分のこともどうなるかわかりません
そこでいつも思うのは さとちゃんの信条である次の言葉
なるようになる しかもよりよくなる
そう思うことにしましょう
そのさとちゃんは私と同じ年の1月生まれ
私は12月生まれ 学年的にはさとちゃんが一つ上になりますか
そのさとちゃんは2011年11月か12月
その辺の記憶のいい加減さは私らしいところなのですが
両親の誕生日もなくなった日も知らない
覚えていないという親不孝ですからね
さとちゃんのことも知らなくて当然
私は糖尿高血圧という典型的な成人病生活習慣病?
わたしとていつ何時お迎えが来てもおかしくないのです
姉さんよりも先に行くことはありませんでしたが
その可能性だってあったわけです
なんでも起こりうる なるようになれと
開き直ればいいのです
葬儀社の方が見えて
ドライアイスの補給をしてくれました
きれいなお顔と言ってくれます
お世辞もあるでしょうが
誰もがそう言ってくれます
ひいき目に見ても私でもそう思います
なにしろ我が家のオードリーだったのです★ときめきのべっぴんさんも杖をつき
死に化粧
必要もなく
ふし子姉