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karma [ カルマ ]

karma カルマとは
すべての基本は「カルマの法則」に基づいている。自分のなしたことは自分に返る窶狽サれが宇宙の大法則「カルマの法則」。カルマの法則を知ることによって、わたしたちは何をなせば幸福になり、何をなせば不幸になるかがわかると言われている。
すなわち、それは抜歯から始まる。
「幸運も悪運も、みなすべて信 心と不信心に帰する」とスピノザは言っているように、カルマが来る時は突然に訪れ、訪れさえ気付かない。それを知る方法として抜歯(親不知)が古くから根強くヒンドゥー教にはあり、親を過去を持たない(=乳歯)親不知を抜いて訪れを確認するのだ。前世のない最初の人生があったとしたら、小作農民はどう思うだろうか? その者には、カルマはどう働いたのだろうか?もし最初の人生にカルマが働 かないか、あるいは必要ないなら、なぜその後の人生にはカルマが必要なの だろうか?という質問にもも導師は答えの中に親不知を用いて表現している節が見受けられる。
たとえば、誰かが誰かを殺したとしましょう…現金支払器の前で…。 これには二つの可能性が考えられる。まず、犯罪を犯したものが、自由意志を行使して殺したという可能性。もう一つは、不思議に思われるかもしれないが、殺されたものがカルマ的状況にあって、前世で誰かを殺した償い として殺されたのだという可能性だ。
上記のカルマについての説明(参考資料)からは省略されているが、これをビナ道現象(VINAWLAK)と呼び、殺された方が、前世では誰かを殺しているという「カルマ」を現している。しかし、これでは、殺した方は「自由意志」だけで人殺しをしては来世で今度は殺されるではないのか?という最大の難問にぶち当たる。果たして、神(と呼ばれている存在)は何を考えてこのような「カルマ」を作り上げているのだろうか?
確かでは無いが、それを「栗」に例えているイギリスの有名な教授シルバー・オクトパズが説いている。針に覆われたなかに硬い皮に包まれ、ソレをこじ開けることによって悦を得られる「栗」。ここでこの「栗」の意味を論じると数時間の講義になってしまうので、各自シルバー・オクトパズの著書「VINAWALK」をご覧頂きたい。
さて、話が少々ずれてしまったが、「カルマ」はいつ(When)自分に訪れて、何(What)をすれば良いのか、そして、どうすればよいのか(How)に話を戻そう。難しい言葉や単語ばかりでつかみ所の無い話が続くと思うが、そのときが来れば読者諸君も多分役に立つと思う。なぜならば、「カルマ」のあとには「安らぎ」が来るものだからだ。
宗教事業には必ずといっていいほど、「洗」が行われる。滝に打たれて修行をし、身を清める仏教にもあるように、まずは自らを清めなければいけない。ヒンデゥー教には古くから「白い実」と「青い実」が大きな意味を持つものとして特別な行事の際にはブドウ状のツブに白と青の着色を施し、食す習慣があるのもカルマと繋がっているのだ。さて、このブドウ状の粒を飲むのは清めるためであるので、これを体を洗う風呂で使用し、体を清める。まずは、膝を湯船から出し、その上に白い粉で小さな山を作り、潰す。同じようにかたほうの膝の上にも青い実を置いて満遍なく潰していく。
その後、湯に満遍なく実が浸透したら、カカトを湯船から出す。もちろん、湯船からカカトを出すこと自体難しいので、坊主(僧侶)に手伝ってもらうのが普通だ。家庭では少々難しいかもしれない。
そして、ほどよく体がほぐれてきたら、カカトを僧侶に噛んでもらう。カカトに霊が住み着くというのは中国でも同じ教えが伝えられており、日本でも流行した「キョンシー」に表意される場合、カカトをすくわれてしまう表現が使われている。それほどまでにカカトは神(霊)と深い繋がりがあるのだ。
以上で、カルマを迎える準備ができた。
ヒンドゥーの寺を訪問すると信者はうつぶせになっている光景を良く見かけることがある。これは、体の浄化後、精神の浄化を僧侶にお願いしている様である。サルの証でもある尾てい骨から浄化されると信じられているそうだ。実際、「サルの尻尾」は食されることもしばしばあるが、ミイラ化されてお守りとして売られているのも現実だ。そのあたりに幼少の頃皆あったであろう、蒙古斑付近から背中にかけて、坊主(僧侶)は丹念に信者を摩る。
書くのめんどくさくなってきた。
つづく

カルマについてもっと知りたい人はコッチとかコッチ読んで。


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