(その5)「人はよくも言われ、悪くも言われるのがよい」という説
ブログ主が最後に書いた文章
「『毀誉褒貶(きよほうへん)』という四字熟語から、この説を見つけました。」
ということなので 私もその辺から考えてみるとします
知ってるようで知らない熟語ですね 何しろ漢字が難しい
毀誉褒貶
意味は
「賞賛したり悪口を言ったりすること」「ほめたりけなしたりの世評」
「英語部」
https://eigobu.jp/magazine/kiyohouhen
ということのようです
私的には この言葉からか学ぶこと考えることは ないようです
人のことをどう思うか あまり関係ないことですの
また私が人からどう思われているかなども気にしないし
私をそもそも知る人はいないでしょう
それほどに私は世間的な付き合いがありませんからね
そりゃあ生きてるからには いろんなかかわりはできますが
さほどの深い関係はないということです
今はツイッターはnoteの投稿告知だけしかしていません
以前は 気になる人のツイートをそれなりにチェックしていました
でもフォローは0 チェックリストに入れてはいますが
コメントもしていましたし RTもしていました
そこで ある事件ついて 私がかつて尊敬していた人の態度反応に違和感を覚え
その違和感は何だろうと考え ノートに書き始めました
それが私の他人に対する批評といえばそうなるかもしれません
ある件に関係するお三方についての感想を書きました
それは私自身の考え方態度を検証する作業でもありました
違和感・・・私が間違っているか その人たちが間違っているか
その検証でもあります
その発端は その方々が発信する考え方や態度への違和感からでしたが
私にすればかつてそんなことはしたこともないことでした
しかし 取り組んでみてある結論を得ましたが
私自身がこの検証作業の中で 様々学び成長できたと思っています
このブログ主の記事は 人は良くも言われ悪くも言われる存在
そのことを悩み考える中で人は成長するのではないか ということでした
私が人の意見に違和感を覚え考えたことは 自分に対する評価云々の問題ではありませんでしたが
他人への違和感を感じたら その違和感の原因は何か考えること
そのことで確実に自分は成長できるということです
人の意見に耳をまったく貸さない人は 自分を顧みることもしないでしょう
自分は正しいし 熱心な支持者がいる 自分を批判するものは問題外
中傷としか見ない そういう人とは何ら共通の土台がありません
表面的な意見の一致はあっても 人間的に理解しあえることはないと言えます
なぜなら 私が感じた違和感の正体は
彼らの人間性そのものの問題だったからです
意見が一致共感するところがあるのは その根底の人間性から発する思想ではなく
世間的な評価を得るための一方策でしかないでしょう
たとえば革新的進歩的良心的評価を売るためのポーズ
真に革新的進歩的良心的であるなら
ある問題に関して 私は違和感を覚えなかったでしょう
何か違う という違和感