日々

誰がためでもなく

 

人に好意を差し出されると、カメラのレンズを向けられている様な気分になる。

私が不細工に笑い、喜んで尻尾を振る姿をフィルムに嵌めて、現像された其れを見て笑う誰かの姿がどうしたって浮かぶ。それ以外に私を喜ばせて何になるのかとすら思う。

 

父は、私の頬を何度も平手で打ったし、白いブラウスが破れるまで私を引きずり、お気に入りの自転車をコンクリートに投げて壊した。

その後泣いて私を抱き締め、「わかってくれたか?」と聞く。

「何が?」と問えばまた、と考えて、私はただ頷く。

父は、鞭を与えた後必ず癇癪を起した恋人を宥める様に娘を抱き締め、その行為を「愛情を注いだ」と言い、私はそれが心底気持ち悪かった。

約一年振りに会ってしまった父は、24にもなる娘の頭を犬の様に撫でた。

あからさまに顰めた顔は、笑った顔に見えたそうだ。

 

きっともう、これらを切り離せない人生なのだろう。

優しさは細切れの餌。人に向かっていれば美しく見えるものが自分に向かった途端芋虫の内臓に見える。

距離を詰める時はいつも小さな針を刺し反応を見て、

固く冷たい貴方がたを好きになり、溶けて砂糖水に変わった途端川へ流しては、可哀想にとただボーっと眺めた。

 

私もいつか、喜びを覚える体を手に入れたい。

それまでに私が変わるのか、そこまでの相手に出会うのか、それは分からないけれど、

貴方が私を好きであることに、心底浮かれてみたい。


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