
無関心なものにこそ表現のヒント
他人が無関心なものに関心を向ける
すでに価値づけられたものに関心を向け、善悪の議論をするのではなく、他の人が関心を向けていないものに関心を向けて、自分で新たな価値を見出してみましょう。そのためには、関心の幅を広げ、みんなとは違う物事に関心を向けることが必要です。あるいは、すでに価値づけされているものごとを別の視点から眺めることが必要です。
私達の目は、変化する光の配置を常に捉えています。でも、そうやって目に入る者すべてを認識しているわけではなく、認識しているのは、そのうち僅かな情報だけです。自分に必要な情報だけに注意を向ける「選択的注意」を行っているのです。だから、見えているつもりで、見えていないことがたくさんあります。それに、目に入る光の配置をそのまま認識するのではなく、実は、すぐに言葉のラベルを貼って情報化してしまっています。
いずれも、私達が効率的に行動をするためには、便利な仕組みですが、その意味で人間の関心は最初っから偏っているとも言えます。それは視覚だけに限ったことではありません。
自分自身の価値を高める
本当の自分の表現は、すでに価値が見出されたものや多くの人の声に自分の意見を重ねることではありません。まだ人が勝ちを見出していない、関心すら向けていない物事を発掘してその面白さを他社に伝えようとする試みなのだと思います。
それは、表現車に限られたものではありません。誰もが、表現をする自由を持っています。理想は子どもの視点や姿勢に近いのではないかと思います。道端の石ころを拾ったり、空の雲に面白い形を探したりするような子どもの視点です。おとなになると「石」や「くも」と言葉でラベル付けされた情報以外、目に止める必要は無い、価値の無いものとしてやり過ごしてしまいます。でも、子どもたちはそうやってラベル付けされる前の、石や雲そのものに目を向けて、そこに自分だけの価値を見出しているのです。
普段の生活の中では不必要な情報として見過ごされているような笹いいな物事に目を向ける、価値の無いものにあえて関心を持つことこそが、表現の第一歩のように思います。見過ごしているところに「おもしろい」物事はたくさん転がっています。そのためには、外に出て、世界を見て、自分のからだや五感を通して体験をすることです。