日本が世界に誇れる大旅行家
今朝は、日本が世界に誇れる大旅行家として一人の男の話をご紹介いたします。
明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。
ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。ついこの前の11月24日に長崎の列福式でローマ法王によって福者として認めらた。
筆者はカトリックなので遠藤周作の著作や、隠れキリシタン関連の本や神学関係の本を少し読んできました。しかし精密に読まなかったのでペトロ岐部のことは知りませんでした。所が下記のキルロイさんのコメントに有る様に遠藤周作の本に出ているそうです。(キルロイさんへ感謝します。−−この部分、事後訂正しました)
私は今回の列福式でやっとその名を知ったに過ぎない。
マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族の部落の助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ想像してみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の旅をした玄三法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。
岐部にも玄三法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。
大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。
ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。これも岐部の人徳の威力によると筆者は考えている。その後2年して彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船で密かに日本へ帰ってきた。1630年と言われている。