日々

姉さんのいない日々 10月31日(木)~『赤西蠣太』

この二日ほど書いてなかった

忘れてた 書くことがなくて書かないこともあるだろうけど

書くのを忘れているとは いいことかな

古い日本映画を観るのにハマってるので

さとちゃんちにコメントするのも 件数減って5件が限度

とここで そのコメントの途中だったことを思い出して

それを書いて5件になる それはそれでおしまいにし

この日記を書くべしだが 例の古い日本映画

今観始めた映画が少し面白そう

赤西蠣太(あかにしかきた)

このタイトルに覚えがあった

今は時代劇はスルーしている 何故かはわからないけど

自分のことで分からないとはおかしなものだが

やはり今は現代ものを観たいというだけのこと

何を観ようかと探していた時にこのタイトルに目がいった

名作という評判が記憶にあった

片岡千恵蔵主演とは知らなかった

あれれ 映画の話になってきたけど

流れだからいいとしよう この先どうなるかわからないし

まだ半分ほど過ぎたところで いわゆる伊達騒動を舞台にしているようで

どうなるかわからないが 観飽きないのは千恵蔵の演技と

落語的会話の妙もある

映画に集中すれば 日記がおろそかになるし

日記に集中すれば 観るのがおろそかになるし

なんてことで迷ってる

それに さとちゃんちのコメントまだ終わってないし

あっちもこちもやりかけ 中途半端な性格が丸々出てるわ

とりあえずコメント済ませて 映画観よう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからは翌日 今は11月1日午前6時半

6時前に起きて ぼんやりした後電気をつけて

映画の続きを観る そろそろ終わりごろ

間者 隠密というのか赤西蠣太は

原田甲斐の謀反の手に入れた証拠の書付を手に

城内から出奔することにする

それを疑われないようにある計らいをするのだが

それを見破った原田会は追っ手を差し向ける

間者の仲間の一人は捕まる

追っ手を逃れた赤西

原田甲斐は討たれてしまう

赤西は 宿下がりしていたさざなみを訪れる

さざなみから好意をしたためた文を赤西はもらっていた

赤西が出奔する理由に計らったのが さざなみへの恋文

それを落としたかのようにする

腰元らの上役にそれが知れ 赤西は叱責され

そのことがいたたまれずに出奔

城内では笑いものになっていたという計らい事

それに甲斐は気づいたのだが 追っ手は赤西の機転で逃れ

甲斐のたくらみは発覚 打たれることに

タイトルバックを観てうなずいたことがある

脚本監督が伊丹万作だった

何も知らずにこの映画を観たら 上記のような感想になるだろうが

伊達騒動を知り 山本周五郎の「樅木は残った」を知っていれば

また違う感想になっただろう

さらにこの映画の原作が 志賀直哉の「赤西蠣太」であることを知れば

さらに違った感想になるかも

映画はその内容ですべてを語らない 語れない

ある意味 観る人の知識理解力を必要とする

大衆娯楽としての映画は 大衆にそれを要求することなく

観ればわかる面白さが求められるが

製作者はそこに何らかの主張を織り込み 理解共感を得ようとする

一種の教育的効果も狙う それが映画が娯楽としての実にあるのではなく

製作者の芸術的表現としての映画の手段可能性としての存在がある

そこに製作者の思想性がある 単なる娯楽としての存在ではなくなる

山本周五郎の小説のいくつかに触れ 彼を尊敬し彼のような小説を書きたいと

一時は思ったことのある若い日をおもいだした

NHKの大河ドラマとして放送され それも観た記憶があるが

私のいわゆる伊達騒動に対する理解が不十分だったこともあり

そのことも忘れていたという状況でこの映画『赤西蠣太』を

タイトルだけのおぼろな記憶で観たわけだが

今検索していくつかのことを知り それを確認するためにまた観たくなった

7時半になった これを終わって先ず朝食にしよう

今日の一日の始まりの日記となった

姉さんのことを何も書かない日記になったが

それこそ「姉さんのいないい日々」になったかと思う

それではまた

ごきげんよう

参考 wikiより

『赤西蠣太』(あかにしかきた)は、志賀直哉の小説『赤西蠣太』を原作とした1936年(昭和11年)製作・公開、伊丹万作監督・脚本による日本の長篇劇映画トーキー映画である。1936年度キネマ旬報ベストテン第5位。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

 


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