しろい骨の、その街の体温の
人生が充実している時、私は全く本を読む気にならず絵を描く気にもならない。本を読むという行為は私にとって現実からの逃避であり、そういう時に読んだ本はひどく胸に突き刺ささりその時の現実の感情と一緒になって記憶の引き出しに保存される。逃避したいときにばかり本をよんでいるのだから、読み返す時はいつも記憶も一緒になって追体験されてなんだか苦い気持ちになることも少なくない。
本とセットになっている記憶は大なり小なりあるが、強烈に印象に残っている本、或いは記憶の一冊とでもいうのだろうか、そんなものがある。その本を読んだ時期、私はちょうど家庭がてんやわんやで精神的に参っていた。まだ20年も生きていないが短い人生の中でもトップクラスに非現実的でフィクションのような事件が起こった。事が起こったすぐの頃は笑い話として人に話していたのだが数日経って冷静になってから自分の状況が笑っている場合ではないことに気付き、人を頼ることを覚えた。そんな感じの時期だった。
究極まで追い詰められた私は、昔友達が勧めてくれた本を本屋で手に取り読んでいた。物語は1人の少女の二次性徴を激しくも繊細に描いた作品で、通学時間を利用して3日間ほどで読んだ。読むのがものすごく苦しかったことを覚えている。ページをめくる手が重く震えるのだ。少女の成長を知るのがなぜか怖くて冷や汗が出た。ホラーでもミステリーでもないのに心臓の音がうるさかった。それでも読み切った時、小学2年生だった少女は中学を卒業していた。周りに抑圧されながら自分という存在について思い悩んでいた少女は、物語の最後で自分らしく生きることを覚える。自分らしさを手に入れる。
これを読み終わったときの私はもちろん少女より年上だったわけだが、自分の生き方ついて考えた事が人生で一度たりとも無かったのでなんだか新しい考え方を得たような、今まで寝ぼけながら生きていたような気分になって友達に「自分の生き方について真剣に考えたことある⁉︎」と勢いで聞き、普通にあるけど。と答えられて唖然とした。私は20年近く生きてきて自分とは何かだとか自分はどう生きたいかだとかについて考えた事がなかったのだ。本当に。おそらくこの本を読んだ世間一般の感想は「あるある」をリアルに描いた作品。とかなのだろうが、私にとっては教科書のようなものだった。普通は自分とは何かについて考えるのか。マジか。これが普通なのか。目が覚めたとしか言いようがなかった。その日から具体的に何が変わったのかと聞かれると説明しづらいが、感情に名前をつけることを覚えたような気がする。今までモヤモヤするとしか感じていなかった気持ちが、これは怒りなのか、これは嫉妬なのか、これは悲しみなのか、とまるで初めて言葉を知った赤子のようにひとつひとつ確認する作業に没頭した。同時に、今までマイナスの感情を全て「もやもや」とだけ分類してあとは流して生きてきたから、自分にもマイナスの感情があると気づいた事実に少し落胆した。マイナスの感情を無視し続けた結果今まで寝ぼけたように御気楽に生きてこれたのだ。気づいてしまった以上気づく前には戻れないのだからこれまでのように御気楽に生きるとはいかないのだろうなと思う一方で、おそらく人として生きるとはマイナスの感情も含めて自分を受け入れることなのだろう、とどこか達観したような思いをぐるぐると巡らせていた。
そんなわけで最近になってようやく目覚めたわけだが、全ての感情に名前をつけることは難しい。日々この感情はなんだ、何が正しい、私とは何だ、と永遠に問いが続いている。目覚めなければ悩まされることはなかったのに、悩みなんてなかったほんの数ヶ月前に戻りたい、と思わないでもないが、自分で自分を人間らしいとも思うので案外今の自分を気に入っているのかもしれない。そういえば目覚める前は「あなたはちっとも怒らなくて少し怖い」「いつも変わらずに生きているよね」などと言われていたのだが、今思えば自分のマイナス感情をほとんど無視して無かったことにしていたのだから、そう言われても仕方ない。
マイナスの感情に、というかマイナスだけじゃなく自分の感情に向き合うことは疲れる。完全に無かったことにしていたあの頃が少し羨ましい。私は生まれてから高校2年くらいまでの記憶がほとんど思い出せないのだが(人間関係がどのようなものだったかの思い出がさっぱり抜けている)もしや自分で自分の感情を無視した結果なのだとするとすこし恐ろしい。
今は無視はしていない、と思う。その分本当に疲れるようにはなった。自分の感情を言葉で説明しようとして記憶の中を辿ってみるが覚えている経験があまりにも少なく、語彙力も乏しすぎてなかなかうまくいかない。それで本に頼って自分の感情の名付け方を探る。結果記憶と本が結びつくというのに至る。自分の知らないことを知りたいとおもう時、大半の人は友達に話すのではないだろうか。例えばこんな辛い事があった、悲しい事があった、好きな人ができた。話せば相手はなんらかの反応をくれる。自分のみの対話では決してその答えは得られない。しかし私は友達に自分のマイナス感情や恋愛感情について話した事がほとんどなかった。楽しいことや嬉しい事は話しても、悲しい事辛い事、ましてや恋愛感情なんて話されて迷惑なのでは気分を害するのではという思いが先行しすぎたのだ。結果他人に踏み込めない踏み込ませない他人行儀な人間の出来上がりである。友達がいないわけではないのだが、自分の弱いところを見せられる友達がいるかと問われると閉口してしまう。
人は少しくらい毒があるほうがいいと聞く。少しくらいってどのくらいよ。加減がわからない。けれどいつまでも踏み込めない踏み込ませない人間でいるわけにはいかない。もう本に頼ってばかりもいられない。本はいつまでも拠り所だ。いつだって変わらない答えをそこに置いておいてくれる。しかしそれは自己との対話の域を出ないのだ。人と接することを覚えよう。私という存在は他者に認識されて初めて私たることができる。私は私が知りたい。答えのない問い。死ぬ間際にわかるだろうか。